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【愛国の歌】かかる時 佐久良東雄(さくらあずまを)

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皆様こんにちは
蓬田でございます。

今日も愛国の歌を鑑賞してまいりましょう!
今日の歌はこちらです。

かかる時
せむすべなしと
黙(もだ)に居る
人は活(い)きたる

人とは言はじ
佐久良東雄

作者の東雄(あずまを)は、愛国一徹の志士です。

人となりは以前にも書きましたけれど、改めて書いておきます。

東雄は、文化八年(1811年)に、常陸国新治郡浦須村(現・茨城県石岡市浦須)の生まれました。

生家は代々名主を務める家でした。

石岡市浦須の場所です。

国学を学び、20代から藤田東湖、会沢正志斎らと交友しました。

学識の高さから藤田から水戸藩出仕を勧められましたが断わりました

そのときの断り文句が、

我主とする所は畏くも今上天皇是なり」。

その後、別の人が水戸藩出仕を勧めたときも、

徳川氏皇室を蔑(ないがし)ろにす。その支族たる水戸に仕ふるは即ち徳川の粟を食(は)むものなり

と言って、断ったといいます。

大阪に移り住んで後、桜田門外の変に参加した水戸藩士を支援。

そのひとり高橋多一郎とその息子をかくまったことにより、捕らえられます。

江戸伝馬町の牢屋敷に檻送され、獄中にて病死。享年五十。万延元年(1860年)のことです。

世間で「我徳川の粟を食まず」として断食し命を断ったと噂が流れたのは、水戸藩出仕の断り文句からです。

明治二十四年、靖国神社に合祀。明治三十一年従四位が贈られました。

歌の意味は、

このような時に
それも仕方ないと
黙って見過ごしているような奴は
生きた人間とはいわない

死人も同然である

東雄三十四歳の作です。

当時、イギリスはアヘン戦争で清を打ち破りました。

清は香港をイギリスに割譲、治外法権、関税自主権の放棄など屈辱的な不平等条約を結ばされました。

東雄はこれを知り、日本も欧米各国と和親貿易を進めるべきで、もしそうしなければ、日本も欧米から戦争を仕掛けられると考えていました。

もっとも清の朝廷は、アヘン戦争は北京から遠く離れた広東での戦いであり、その敗北を深刻には考えていませんでした。

あいかわらず中華思想はそのまま、イギリスは野蛮国扱いでした。

当事者の清ではなくて、当事者ではない日本の志士たちが、アヘン戦争の本質を見抜いたことは素晴らしいと思います。

現代を顧みますと、ここ20年ほどグローバリゼーションというスローガンのもとに、外国との交流をいっそう拡大させる風潮が幅をきかせてきました。

外国と積極的に交わってこそ日本が発展するという日本人のマインドは、いくつかの要因から形成されたものと思いますが、この幕末から明治維新に至るときの事情も大きな要因かと思います。

でも大事なのは、幕末の愛国者と、今の平成・令和に生きるわたくしたちとでは、国家観念がまるで違うということです。

幕末の志士は、真の愛国者でした。

一方、今では「国を愛する」と発言するだけで、危険な右翼呼ばわりされかねない始末です。

幕末の愛国者は、日本の歴史、伝統、文化を身に備えた本当の日本人でした。

大東亜戦争に敗れ、日本は有史以来はじめて占領されました。

占領者は、日本国民を国家観をもたなく、自国の歴史や伝統を軽んじる国民になるよう、あらゆる手段で洗脳しました。

日本をより幸せな国にするためには、ひとりひとりが本当の日本人を取り戻す必要があると思っております。




スクー

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