皆様こんにちは
蓬田でございます!
今日も中国についての話題を、皆様とご一緒に考えてみたいと思います。
今日は、中国の歴代の指導者のひとり「鄧小平」についてです!
現在の中国は、共産党が支配しながら、共産主義が本来は否定していたはずの資本主義経済によって発展してきました。
GDPは、日本を抜いて世界2番目の大きさとなっています。
中国のGDP統計が正しいのかどうかは分かりませんが、急激な経済発展をしてきたことは事実です。
この経済発展の礎を作ったのが鄧小平です。
中国に「改革開放」と言うメールをして今の中国の発展させました。
鄧小平は1904年(明治三十七年)、四川省に生まれました。
客家の出身といわれています。
客家からは世界的にも著名な人が多く輩出しています。
政治分野では、中華民国建国の父とされる活動家孫文、台湾の李登輝元総統、シンガポールのリー・クワンユー元首相などが客家出身です。
タイガーバームという軟膏で大富豪となった香港の胡文虎も客家です。
鄧小平ですが、1920年(大正九年)フランスに留学。1922年(大正十一年)に共産党に入党しました。
その後、モスクワの中山大学(ソ連と中国共産党がモスクワに設立した大学)で共産主義、革命理論、プロパガンダなどについて専門的な教育を受けました。
1927年(昭和二年)中国に戻り、西安の中山軍事学校で政治部の主任教員となります。
中国共産党内で地位を上げていきますが、党上層部に逆らったとして、県書記から村の小さな役職に降格させられ、政治的に失脚しました。
その後、かつての同士、毛沢東の計らいで返り咲き、共産党内での地位も上がっていきます。
1949年(昭和二十四年)中華人民共和国が建国。
鄧小平は主に経済を担当します。
毛沢東は大躍進政策を推進するも失敗。
党幹部の誰もが毛沢東の力を恐れて毛沢東路線からの転換を図れないなか、鄧小平はこれまでの政策を転換させ、商業主義的な経済を少しずつ進めていきました。
政策転換を快く思わない毛沢東は、党の要職を自分の子分たちで固めていき、文化大革命を進めます。
鄧小平を、資本主義にまみれた悪者として攻撃。
当時、鄧小平は党総書記でしたが、その職を剥奪し、自宅に軟禁します。
鄧小平は6年間の軟禁生活中、何度か毛沢東に反省の長い手紙を書きました。
毛沢東はその熱意に打たれたのか、副首相として中央政界に戻します。
1976年(昭和五十一年)周恩来が死去すると、四人組によってまたもや自宅軟禁となり、失脚させられてしまいます。
しかし、四人組の後ろ盾である毛沢東が亡くなると、間もなく四人組は逮捕され、1977年(昭和五十二年)に復活を果たしました。
復活した鄧小平は、今の経済発展につながる政策を進め、“鄧小平時代”の幕が開くことになりました。
ちなみに、鄧小平は16歳で故郷を出ましたが、死ぬまで一度も故郷に戻ることはありませんでした。
なぜ?興味深いです。
今回は、鄧小平の3回の失脚と3回の復活についてお伝えしました。
機会を改めて、鄧小平の経済政策についてお伝えしたいと思います。
今回の記事が、皆様の中国認識にとって参考になるところがありましたら幸いです!