令和五年8月20日取材。


道路の向こう側一帯が習志野学校の跡地。
現在は学校や住宅などが建っている。
習志野学校になる以前は、騎兵旅団、第15聯隊、第16聯隊が展開していた。
秋山好古、閑院宮載仁親王、バロン西(西竹一陸軍大佐)などで知られる、あの騎兵隊である。
日露戦争、満州事変、支那事変に出動、赫赫たる戦果をあげた。
兵器の近代化により規模を縮小。騎兵隊がいなくなった聯隊跡に習志野学校が移ってきた。
わたしは長年、習志野学校について調べていたが、習志野学校についての公開情報は少ないうえ、仕事がないとき、思い出したようにぽつぽつと調べていただけであり、収穫はほとんどなかった。
しかし今回の取材で、地元で生まれ育った年配の男性から、習志野学校のことについて聞くことができた。
わたしの習志野学校研究が大きく進んだことを実感した。
この道路の先に当時の遺構が残っている場所がある。
数年前に訪れたことがある。
ひっそりとしていた。軍事施設跡地は地元教育委員会などによって案内板が設置されていることがあるが、そこにはそういう類のものはなかった。
あったのかもしれないが、駆け足の取材であり、見つけられなかったのかもしれない。
近く、再度取材に赴く予定である。
習志野学校跡地は、下の地図のように、現在の陸上自衛隊習志野演習場の近くにある。
地図は、環境省のサイトに掲載されていたものである。

習志野学校の跡地を広大であるため、以下のマップでは、敷地内にある東邦大学付属中学高等学校の位置を示している。