令和五年8月20日現地訪問。

これまで3回、ここを訪れ調査したと思う。

3回目でようやく司令部がどこに位置していかが分かった。

詳細については写真のうしろに書く。まずは現場で撮影した写真を見ていただこう。

場所は京成大久保駅から歩いて7、8分のところにある八幡公園である。

八幡公園の地図を、写真のあと掲載した。

騎兵連隊・旅団司令部跡

明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原(こがねはら)は、同六年(一八
七三年)明治天皇行幸(ぎょうこう)の際に、「習志野原」と命名されてから、周辺
に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。

明治三十二年、日本陸軍初の快速兵団(かいそくへいだん)として騎兵連隊が習志野原 に創設され、同三十四年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第十三・十四連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・ 高校付近に第十五・十六連隊からなる第二旅団がおかれました。 さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。

日露戦争(明治三十七~三十八年)の折には、両団が派遣され ましたが、満州事変(昭和六年)・支那事変(同十二年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に再編制されていきました。

第二次世界大戦後、連隊跡は学校に、旅団司令部本部の建物は郵便局になり、八幡公園にあった司令部の講堂には、私立大久保保育園が開設され ました。この保育園は、昭和二十四年(一九四九年) 津田沼町に移管されて、本市 第一号の公立保育所となり、昭和四十年、 泉町三丁目に移転しました。

令和四年三月
習志野市教育委員会

跡地は公園となっていた。

公園内には司令部跡を示す石柱、騎兵旅団を顕彰する大きく立派な石碑があった。

騎兵は、馬と騎乗する人間が一心一体である。

馬は騎兵隊にとって兵力であり同僚であり友であったのだろう。

公園内には大きな馬頭観音の石碑も祀られていた。

公園の入り口には司令部の門柱が立っていた。

公園内に騎兵旅団の遺跡を保存してくれた習志野市教育委員会や関係の方々のご努力に感謝申し上げたい。

☆  ☆

遺跡は遺してくれたのだが、誤解を生む遺し方になっていることも、あえてここで申し上げたい。

司令部の門柱が公園の入り口にあり、隣には教育委員会の説明板と復元図があるので、これを見た人は司令部の門はここにあって、門の奥に司令部の建物があったと考えるだろう。

わたしもそう考えた。

本当は違う。

司令部の門柱は、現在立っている場所には当時はなかった。

門柱が立っていたのは、現在は公園のとなりにプラザ大久保という公民館があるが、ここであった。

門柱の向きも違う。

現在は公園入口、北向きに道路に面して立っているが、この道路は当時はなかった。

日本の敗戦後に、このあたりの住宅街を整備するにあたって作られた道路ではなかろうか。

司令部の門柱は、プラザ大久保の入り口あたり、北向きに立っていた。

☆ ☆

司令部の建物はいまのプラザ大久保のあたりにあった。

門柱の立っている公園のなかではない。

当時の司令部の敷地は広かった。

いまのプラザ大久保、そのうしろの公園、門柱が面している道路、道路の向かい側がすべて敷地であった。

いまの公園の3倍から4倍くらいの広さであろうか。

☆  ☆

この調査の日、司令部があった頃のことをよく知る地元の年配男性と話す機会があった。

司令部、騎馬連隊、当時の大久保のまちについて、いろいろなことを教えてくれた。

門柱のことも話題になった。

その方が言うには、いま公園に設置されている門柱は、当時の司令部に立っていたものを正確に復元したものではないとのことだ。

門柱自体は本物だが、位置関係が違うらしい。

正確に復元すると公園の利便性などにも影響が出たのであろうからやむを得ない。

ここを参観される方は、いまわたしがこの記事で書いたことを念頭に置かれると誤解が少ないと思う。