(一)

朝、夫はいつものように職場に行くため家を出た。それきり帰らなかった。

夫は地元の役所に勤めている。

夫が家を出たあとすぐに、中学生の娘が家を出て学校に行った。

私も娘のあと、家を出た。私は地元の小さな会社で事務員として働いている。

その夜、夫は家に帰って来なかった。携帯に電話したが、呼び出し音が鳴るだけだった。

次の日の午前中、夫の職場に電話を掛けた。

夫は昨日は休んだという。きょうも出勤していないと、電話口の男性は言った。

私は仕事を半日休んで、警察署に行って、夫の捜索届の手続きをした。

そして3日過ぎたころ、一通のハガキが届いた。夫からだった。

(二)

夫は東京の大学を出て、中央官庁に勤めた。2年したところで、地方の役所へ出向となり、15年が過ぎた。

私と夫は学生時代に知り合い、大学を卒業するとほどなくして結婚した。

夫は学生時代から文学が好きだった。特に詩が好きで、自分でも詩を書いた。

働くようになってからも、学生時代からの習慣が抜けないのか、自分の想いを言葉にして、パソコンやノートに書きつけることを続けた。

そうして書きたまった詩は、ハードディスクの中に書き込まれ、あるいは書棚に積まれたままであった。

ある日、夫の机の上に詩のフレーズが書かれたままのノートが開いてあった。

見るともなしに見ると、そこには

「いずれ本当の自分に戻るだろう」

と書かれていた。

(三)

私と娘は、夫からのハガキが届いた翌日、消印が押された土地へ行った。夫はそこにいるはずだ。いまはいなくとも、その地から投函したということは、少なくとも夫はそこにいたはずだった。

消印は、私たちが住む福島県の隣の岩手県のいなかの町だった。

東北線に乗り北へ向かった。消印の駅で降りた。駅前は民家がまばらにあるだけだ。

駅のすぐ近くに小高い山があった。5、6分も歩けば山に登れそうな距離だ。山は、木々の緑が昼のおだやかな日差しに照らされ、優しそうにみえた。

夫はその山にいるような気がした。山に向かって、私と娘は歩き出した。

細い道を歩いて、山の中に入った。風が木々を揺らし、葉が擦れる音が大きくなった。

そのとき、ふと足元に気配を感じた。

蛇だった。

(四)

私も娘も不思議と怖さは感じなかった。

長い胴をくねらせ、艶やかなからだが木漏れ日の光を受けてきらめいていた。

娘が小さな声で呟いた。

「……お父さん?」

蛇は何も言わず、ただ口から出した舌先を上下に揺らした。

蛇の目はもの静かな雰囲気で、どこかを凝視していた。

その目をみたとき、私は夫を感じた。

蛇はするりとからだの向きを変えて、藪の中へ消えていった。

私たちは呼び止めなかった。ただ、その細長い影を見送った。

風が吹いた。木々がざわめき、森林の匂いがした。

夫は人の世を捨て、蛇となったのだ。

私は夫の書いた詩の一節を思い出した。

「いずれ本当の自分に戻るだろう」

(完)

(令和6年2月)