2026/1/27
蓬田修一

わたしは長年、リベラルや革新勢力の人たちの言動に大きな違和感を感じてきた。同じような人は多いだろう。

感情だけでは、あれほど継続的に同じような考え方を強く主張することはできない。彼らの言動の背景にはきっと理論があるのだろう、と思い調べたら、やはりあった。

その理論体系について、整理してみる。


革新的勢力の言動は「感情」ではなく「思想」から来ている

基地問題や安全保障、国家政策をめぐる議論の中で、革新的勢力の発言や行動に対しは、「なぜそこまで国家を信用しないのか」「現実を無視しているのではないか」と違和感を覚える。

しかし、彼らの言動は、その場の感情や一時的な反発から生まれているわけではない。言動の背景には、長い時間をかけて形成されてきた一貫した理論体系と世界観がある。


国は「疑うべき存在」

革新的勢力の思想の根本には、「国家は疑うべき存在」という思想がある。

この発想の源流の一つが、マルクス主義国家論だ。そこでは国家は特定の力を持つ集団が秩序を維持するための装置と捉える。警察や軍隊、法律も国民を従わせるための仕組みの面が強いと理解している。

この考え方に立つと、国家が「安全保障のため」「国益のため」と説明する政策は、まず疑ってかかるべき対象になる。

例えば、国防のための施策は「国民を守るため」ではなく、「国家権力を維持するため」と彼らは考える。


「合理性」や「安全」という言葉への不信

もう一つ重要なのが、フランクフルト学派に代表される批判理論だ。フランクフルト学派は、20世紀のヨーロッパで、理性的で近代的な国家がなぜ全体主義へと転落したのかを考えた。

その結論は、「理性そのものが支配の道具になりうる」だ。

効率、安全、合理性といった、一見すると誰も反対できない言葉が、人間の生活や尊厳を切り捨てる口実になることがある。

国家が「合理的判断」として示す政策ほど、注意深く疑わなければならない。こうした思考が、革新的勢力の中には強く根付いている。

そのため、「日米同盟を強固にする」「現実的な選択をする」といった説明は、彼らは警戒すべき言葉として受け取る。


戦後日本特有の「国家不信」

これらの理論的背景に加えて、戦前・戦中の国家への強烈な反省があります。

彼らは、国家が「国のため」「安全のため」と言いながら国民を戦争に動員し、破滅的な結果を招いた、という思いを胸に深く刻んでいる。

だから「国家を信じること自体が危険」「国家に力を与えすぎると、再び同じ過ちを繰り返す」という警戒心を持つ。憲法九条を重視し、軍事や国防に強い慎重姿勢を示すのも、単なる理想論ではなく、この歴史認識に根ざしている。


「当事者の声」を最優先する考え方

さらに近年は、権力論やポストコロニアル理論の影響も見られる。これらの理論では、国家は常に「強者」、地域や少数者は「弱者」として捉える。特に沖縄の基地問題では、「国家対沖縄」「中心対周縁」という構図が強調される。

この枠組みでは、「影響を受ける当事者の声」が最も正統性を持ち、国家全体の論理は二次的なものとされる。国家がどれほど戦略的な理由を述べても、「当事者が反対している」という事実が、決定的な意味を持つ。


まとめ:なぜ理解されにくいのか

革新的勢力の言動が理解されにくい理由は、彼らは政策の是非以前に、国家という存在そのものを根本から疑っているからだ。

多くの国民が共有しているであろう「日本本来の国家の姿を取り戻す」「国家は誇れる存在」という前提が、彼らには存在しない。

そのため議論は多くの場合噛み合わない。しかし、彼らは彼らなりに、首尾一貫した思想に基づいて発言し、行動しているのだ。