2026/1/25
蓬田修一
文学作品の鑑賞と批評は連続した営みですが、その性質には明確な違いがあります。
まず、文学作品の鑑賞とは何でしょうか。鑑賞とは、作品を読んだときに読者の内面に生じる心の動きそのものです。
感動、違和感、共感、拒否感、あるいは理由のはっきりしないざわめき。こうした感情や感覚は、読者一人ひとりの人生経験や記憶、置かれている状況と深く結びついています。
そのため鑑賞は、きわめて個人的で、必ずしも言葉にできる必要はありません。「なぜか心に残った」「よく分からないが嫌いではない」といった曖昧な状態のままでも、鑑賞としては十分に成立します。
この点で、鑑賞は読者の内側で完結してよい行為です。誰かに説明しなくてもよく、矛盾を含んでいても構いません。むしろ、その揺らぎや言葉にならなさこそが、文学を読む喜びの一部だと言えるでしょう。
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一方で、批評は性質が異なります。批評とは、作品についての読みを、他者に向けて差し出す行為です。
自分が感じたことを出発点にしながらも、それをそのまま感想として語るのではなく、「この作品は、こう読むことができるのではないか」という形で、新しい読み方を提示します。
そのため批評には、ある程度の整理と説明が必要になります。どの場面に注目したのか、なぜそう解釈したのか、他の読み方とどこが違うのか。
こうした点を言葉で示し、読みの根拠を作品の中に見出していく必要があります。批評は、他者に向けて開かれている以上、一定の説得力を伴わなければなりません。
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ここで重要なのは、批評が鑑賞を否定するものではない、という点です。むしろ逆で、批評は鑑賞なしには成り立ちません。
最初にあるのは、必ず読者自身の心の動きです。その感動や違和感を、「なぜそう感じたのか」「その感覚はどこから来たのか」と問い直し、言葉にして外に開いていく過程が批評なのです。
現在の文学研究や批評の世界でも、この理解は広く共有されています。かつては、作者の意図を正解として読み取ることが重視された時代もありましたが、今では作品の意味は読者との関係の中で生まれるものだと考えられています。
その前提に立てば、鑑賞も批評も、作家の思惑から自由であるという点では共通しています。ただし、鑑賞が内面の経験であるのに対し、批評は公共の場に提示される解釈だ、という違いがあるのです。
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鑑賞は「自分の中で起こること」、批評は「他者と共有するための言葉」。文学作品を読むとは、まず心が動くことを許す行為です。
そして、その心の動きを信頼しつつ、必要に応じて言葉にし、他者に差し出してみる。
その往復運動の中に、文学を読むことの深い面白さがあるのだと思います。