2025/12/18
蓬田修一
現在の中国共産党政権を理解しようとするとき、多くの人は「独裁」「監視社会」「共産主義」という言葉から考え始める。しかし、それだけではなぜこの体制が成立し、今日まで続いているのかは見えてこない。重要なのは、中国共産党がどのように中国を「作り直した」のかという視点である。
とくに注目すべきなのが、同じ中国を舞台に政権を担った蒋介石と毛沢東の決定的な違いだ。なぜ蒋介石は地方を抑えきれず、毛沢東はそれを可能にしたのか。この差こそが、現在の中国の原型を形作っている。
蒋介石は「壊さずに治めようとした」
1928年、蒋介石は北伐を終え、南京に国民政府を樹立した。形式上、中国は統一された。しかし実態は、各地の軍閥や有力者が依然として強い力を持つ、非常に不安定な国家だった。
蒋介石政権は、地方軍閥、地主層、旧来の士紳と妥協しながら政権を運営した。言い換えれば、既存の社会秩序を前提に国家を作ろうとしたのである。これは常識的で穏健な選択だったが、結果として中央政府は地方を本当の意味で掌握できなかった。
税も兵も地方の協力がなければ動かない。地方は名目上は従っていても、実際には独立性を保っていた。蒋介石は「国家」を作ろうとしたが、「国家以前の社会構造」を変えることはできなかった。
毛沢東は「壊してから作る」道を選んだ
毛沢東と中国共産党は、まったく逆の発想を取った。彼らは、地方を支配できない原因が「古い社会構造そのもの」にあると考えた。
地主、士紳、地方有力者――これらを単なる政治的ライバルではなく、「革命の敵」と位置づけ、排除の対象とした。土地改革では、公開闘争や処刑が制度的に行われ、地方社会の権力構造は徹底的に破壊された。
これは暴走ではなく、計算された国家建設の手段だった。既存の秩序を残したままでは中央集権国家は作れない、という冷酷な現実認識があった。
「農民の支持」だけでは説明できない
共産党の成功はよく「農民の支持」によって説明される。しかし、それだけでは不十分である。実際には、農民を動員して地主を攻撃させることで、地域社会に深い分断を作り出した。
重要なのは、農民自身が革命の暴力に関与した点だ。一度それに加わった人々は、革命体制から簡単には離れられなくなる。結果として、人々は共産党の支配構造の中に組み込まれていった。
これは支持というより、巻き込みと拘束に近い。
国家より先に「党」があった
中国共産党の最大の特徴は、国家成立以前から地方末端まで張り巡らされた党組織の存在である。党は単なる政治団体ではなく、治安、行政、思想統制、監視を一体化した支配装置だった。
1949年の建国は、新しい国家の誕生というより、すでに存在していた支配システムが正式に国家になった出来事だったと言える。
蒋介石の国民党が「国家を前提とした政党」だったのに対し、共産党は「国家に先行する統治組織」だった。この違いは決定的である。
地方有力者はどうなったのか
毛沢東政権は地方有力者を全て消したわけではない。協力的な人物は行政や軍に取り込まれた。しかし、それは独立した権威として認められたわけではない。
党の監視下に置かれ、いつでも排除できる存在として管理された。つまり、温存ではなく完全な従属である。蒋介石が地方勢力と「妥協」したのに対し、毛沢東は地方勢力を「解体・再編」した。
なぜ蒋介石には同じことができなかったのか
蒋介石が毛沢東と同じ方法を取れなかったのは、能力不足ではない。国家観の違いである。
蒋介石は秩序を維持しながら国家を作ろうとした。毛沢東は、秩序を破壊してでも国家を作ろうとした。この選択の違いが、その後の中国の運命を決定づけた。
現代中国を見るための視点
現在の中国共産党が地方の自立や分権に強い警戒心を持つのは、この革命期の経験があるからだ。地方が力を持つことは、国家分裂につながるという恐怖が、政権の深層に刻み込まれている。
おわりに
毛沢東が成し遂げ、蒋介石が成し得なかったのは、単なる政権奪取ではない。社会構造そのものを破壊し、作り直すことだった。この事実を理解しなければ、中国共産党政権の本質も、将来の行方も見えてこない。
中国問題を考える際、表層的な「独裁」「人権」という言葉の背後にある、この国家形成の原点を押さえることは、私たちが冷静に現実を見極めるための重要な手がかりになるだろう。