2026年2月21日調査


自宅からほど近くに、このような石棺がしっかりと残っているとは驚きだ。6世紀末の古墳であるという。
6世紀末というと、推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政となり、蘇我馬子とともに日本の国家体制の整備が行われていた。
古墳時代から飛鳥時代へと転換していったときだ。
古墳脇の説明パネルにはこうある。
習志野市指定史跡
鷺沼古墳B号墳
標高約18メートル八剣台(はっけんだい)の台地上にある数基の古墳からなる古墳群です。
このうち城址公園内にある二基の古墳は昭和四十一年の調査で全長20~25メートルの前方後円墳であることが確認されました。
西側のA号墳から出土した埴輪は下総型円筒埴輪という下総地方独特の埴輪で、これをもとにA号墳は六世紀後半のものと推定されています。
東側のB号墳は、前方部と後円部の境目あたりで発見されたニ基の石棺の造りや埴輪が立てられなかったことなどから、六世紀末と推定されています。
石棺のうち一基はすでに破壊されていましたが、もう一基は無事でした。
この石棺は内のりの大きさがおよそ長さ2メートル、幅0.8メートル、深さ0.7メートルの箱式石棺で、南房総方面から運ばれたと考えられる砂岩・凝灰岩を金属製の工具で加工して造ったものです。
もとは蓋石(ふたいし)が覆っていました。
石棺の中からは成年男子二体分の人骨片が発見され、直刀破片・土玉(どだま)・鉄鏃(てつぞく)・刀子(とうす)などの副葬品も出土しました。
この時代に鷺沼を本拠地とした豪族がいたといたことと、房総の他地域との関わりを示すたいへん貴重な遺跡です。

古墳は鷺沼城址公園内にある。
鷺沼城について、Wikiでは以下のように説明している。
築城時期は不明だが、吾妻鏡に見える、石橋山の戦い後に頼朝が兵を整えた鷺沼旅館をこの鷺沼城に比定する向きがあり、この説を容れれば築城時期は平安時代に遡る事になる。
その後の鷺沼城に関しても詳細は明らかではないが、千葉郡誌に正応年間(1288年-1292年)に鷺沼太郎源太光義が拠りその墓が高台の南西部に築かれたとあり、本丸内の祠がその墓であると伝わる。
城跡に建つ1959年(昭和34年)建立の石碑碑文によると、600年前の正応年間に市川城主の里見氏と鷺沼源太満義ら下総の諸将が北条氏康と戦って敗れたとあり、第二次国府台合戦に鷺沼氏の末裔が加わった可能性が考えられるが、内容がひどく混乱しており、また、前述の鷺沼太郎源太光義と読みが同じであることから、光義の事績が誤って伝わったものとも考えられる。

A号墳とB号墳が公園内にある。石棺が現存しているのはB号墳だ。発掘時はふたつの石棺があったが、ひとつは破壊されていた。もうひとつは幸運にも破壊を免れた。

上の写真は石棺を発掘したときのようすだ。5つの大きな石で棺を塞いでいる。下に改めて今の状態を見てもらおう。棺のまわりに大きな石が置いてある。形状を確認すると、どうやら蓋として使っていた石のようにみえる。


古墳跡には武人埴輪が設置されていた。(上の写真) しかし、この古墳からは武人埴輪は出土していない。円筒式埴輪が出土した。事実とは違うこのような展示は見る人を誤解させる。円筒式埴輪は見た目が地味で、キャッチーな武人埴輪にしたものと想像する。遺跡はエンターテイメントではないのだから、出土した埴輪を展示するべきだろう。



鳥居の奥に鷺沼太郎源太の祠がある。この鳥居と祠あたりがA号墳跡だ。

祠のなかには石造りの祠が安置されている。石祠には源太宮とある。

鷺沼太郎源太満義諸武士之碑と読める。

碑文にはこうある。
今を去る六百年前正應年間伏見天皇時代市川城主里見氏及び源太氏を始め下總十有城主一團となり北条氏康と戦い遂に利あらずして戦死す
然るに未だ其の霊魂の冥福を祈る事あたわず依て吾等相謀り慰霊碑を建て之を祭る

古墳跡を含む一帯は広々とした空間の公園となっている。わたしが調査に訪れたのは休日の午前中だったが、少年ふたりと親戚のお兄さんといった風体の男性がボール投げに興じていた。公園周縁はランニングやウォーキングができる歩道が整備されていている。周辺住民の憩いの場だ。

習志野市役所方面から城址公園へ向かう道。左が城址公園。古墳や城は台地に築かれたことがよく分かる。

公園へ上る階段。標高18メートルあり、公園のある台地から南側を見渡すと遥か彼方まで一望できる。古代人がここに墳墓を築いた理由がよく分かる気がする。城にとっても、軍事拠点としてこのあたりでは絶好の場所だったろう。