2026/1/9
M&C・蓬田修一

吉田兼好の『徒然草』は、中世随筆の代表作として知られ、無常観や隠遁者の感想録といった枠組みで語られることが多い作品である。もちろん、そうした理解は決して誤りではない。しかし、それだけで、この作品が現代に至るまで多くの人に読み継がれてきた理由を十分に説明できるだろうか。実際に『徒然草』を読むと、仏教的な無常観、神道的な自然感覚、儒教的な倫理観、さらにはきわめて世俗的な人生観が、整理されることなく同時に語られていることに気づく。兼好は思想をまとめ上げることも、明確な結論を示すこともしない。その姿勢は、単なる気ままさや未完成さなのだろうか。本稿では、『徒然草』を中世の随筆としてではなく、現代の日本人が示す思想の受け取り方を先取りした作品として読み直してみたい。

これまで『徒然草』は、主として中世という時代状況の中で理解されてきた。すなわち、王朝文化が衰退し、社会が不安定化する中で、出家した知識人である吉田兼好が、無常の世を静かに見つめ、その感懐を綴った随筆である、という捉え方である。そこでは仏教的無常観が作品の中心に据えられ、世俗を離れた隠遁者の人生観や、美意識の表現として評価されてきた。また、段ごとの雑多さや統一感のなさも、「徒然」という題名に即して、思いつくままに書き留めた結果として説明されることが多かった。この理解は長く共有され、『徒然草』を中世文学の枠内に安定的に位置づける役割を果たしてきたと言えるだろう。

しかし、このような理解は、『徒然草』という作品がもつ魅力の一端を捉えているにすぎないように思われる。無常観や隠遁者の感想録として読むことで、『徒然草』は確かに中世文学の中に安定的に位置づけられるが、その一方で、作品の射程はそこで閉じてしまう。従来の読みは、『徒然草』を「中世」という時代の枠の中に収めることに成功した反面、なぜこの作品が時代を越えて読まれ続けてきたのか、という問いに対しては十分な答えを与えてこなかったのではないだろうか。もし『徒然草』が中世的無常観の表現にとどまる作品であるならば、その価値はすでに歴史の中に回収されていても不思議ではない。それにもかかわらず、現代の読者がこの作品に違和感なく向き合い、時に共感さえ覚えるのはなぜなのか。この点にこそ、『徒然草』を改めて読み直す必要性があるように思われる。


こうした曖昧さや価値観の混在は、決して思考の未整理や随意性の結果ではないように思われる。むしろそれは、神道的な自然感覚を基盤としつつ、仏教的無常観や儒教的倫理を必要に応じて受け入れてきた日本人の思想受容の姿とよく重なっている。私たちは日常生活の中で、特定の思想体系に厳密に従うことなく、場面ごとに異なる価値観を自然に使い分けているが、その姿は『徒然草』に描かれた思考のあり方と驚くほど似ている。兼好が示したのは、一貫した教義ではなく、矛盾を抱えたまま生きる知のかたちであり、その点にこそ、この作品が現代まで読み継がれてきた理由があるのではないだろうか。

では、兼好はなぜ自らの思想を体系化しなかったのだろうか。仮に彼が仏教思想を中心に据えるのであれば、無常を徹底的に掘り下げ、世俗を否定する立場を明確に示すこともできたはずである。また儒教的倫理を基盤とするなら、人の生き方に明確な規範を与える文章を書くことも不可能ではなかった。しかし『徒然草』において兼好は、そのいずれの道も選ばなかった。思想は提示されるが、整理されることはなく、評価は示されるが、結論は断定されない。この態度を未成熟さや思索の不足として片づけるのは、やはり適切ではないように思われる。


むしろ、思想を体系化しないという選択そのものが、日本的な思想受容のあり方を体現していると考えるべきではないだろうか。日本では、神道・仏教・儒教といった異なる思想が、互いに排除し合うことなく併存してきた。それぞれが厳密な体系として理解されるよりも、生活や状況に応じて柔軟に用いられてきたのである。兼好の文章に見られる思考の揺らぎや価値観の混交は、このような思想文化の土壌の中でごく自然に生まれたものだろう。『徒然草』は、体系的思想書ではないがゆえに、日本人がどのように思想と向き合い、どのようにそれを生き方の中で運用してきたかを、きわめて率直に伝えている。その意味で、兼好の態度は未完成ではなく、むしろ一つの完成された思考様式を示しているのである。

以上見てきたように、『徒然草』は中世随筆として読むことで、その歴史的背景や無常観の表現を理解することができる作品である。しかし、それだけにとどめてしまえば、この作品が今日まで読み継がれてきた理由の核心には迫れないだろう。むしろ、『徒然草』を日本人が神道・仏教・儒教・道教といった多様な思想を、対立させることなく受け入れ、生活の中で柔軟に用いてきた姿を描いた作品として読むとき、その意味は大きく変わってくる。兼好が思想を体系化せず、結論を断定しなかった態度は、日本的思想受容の特徴そのものを表しているのである。


このように捉え直すなら、『徒然草』はもはや過去の文学作品ではない。そこに描かれているのは、現代の日本人が無意識のうちに行っている思想の選び方、価値観との距離の取り方そのものである。私たちが特定の教義に帰依することなく、場面ごとに異なる価値観を受け入れて生きている姿は、すでに『徒然草』の中に書き込まれていると言ってよいだろう。『徒然草』を読むことは、中世の知識人の思索をたどることにとどまらず、私たち自身の思想のあり方を見つめ直すことでもあるのである。