2026/1/6
M&C・蓬田修一

1.『音楽』という作品の位置づけ――三島文学の中での特異な静けさ

三島由紀夫の作品世界と聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは、作品全編にみなぎる過剰なまでに張り詰めた美と緊張でしょう。わたしは三島作品を読むたびに、文章の緊張感に圧倒されます。

その中で、1964年発表の長編小説『音楽』は、いささか異質な位置にあります。舞台は東京都心、中心人物は精神科医と若い女性。物語は外面的な事件よりも、内面の「欠落」をめぐって進行します。緊張感はありますが、静かな文章が続きます。

しかし、この静けさこそが『音楽』の核心です。本作は、現代人の精神構造を、冷静な形で解剖した作品だと言えるでしょう。


2.「音楽を聞けない女」――物語の骨格と象徴性

『音楽』の物語はこうです。主人公の精神科医は、「音楽を聞いても何も感じない」という奇妙な訴えを持つ女性・麗子と出会います。彼女は知的で、教養があり、社会的にも問題のない、いわば「完成された現代人」です。

重要なのは、麗子が音楽を理解できないのではなく、感じられないという点です。自分の身の回りにある音は聞こえるのに、音楽だけは聞こえないのです。音楽を聴いて得られる感情がないのです。この「感情の空白」こそが、物語全体を貫く主題となります。

三島はここで、麗子を単なる個人的な異常の症例として描いてはいません。彼女はむしろ、近代社会が生み出した精神の一つの完成形、すなわち理性と社会性を過剰に獲得した結果、感覚を失った存在として造形されています。

「音楽を聞けない女」という設定は、象徴的です。音楽とは、言語や論理以前に、人間の身体と感覚に直接働きかける表現形式だからです。それを感じられないということは、世界と身体が切断されていることを意味します。


3.「音楽」とは何か――言語以前の身体的快楽の比喩

本作における「音楽」は、単に芸術ジャンルとしての音楽を指しているわけではありません。むしろそれは、言語化される以前の、身体的で快楽的な感覚そのものの比喩として機能しています。

人は本来、理由を説明できないままに感動し、震え、涙を流します。音楽はその代表的な媒介です。しかし近代社会において、人間はあらゆる経験を「意味」や「理由」に回収しようとします。感情は分析され、快楽は管理され、衝動は抑制される。

麗子は、その極端な到達点にいる人物です。彼女は、自分の感情を常に言語化し、整理し、制御しようとする。その結果、身体が先に反応するはずの感覚が、すでに失われている。音楽は理解できても、身体が震えないのです。

この意味で『音楽』というタイトルは皮肉に満ちています。作中で描かれるのは、音楽が鳴り響く世界ではなく、音楽がもはや「聞こえない」精神の風景なのです。


4.麗子が体験する行為――回復ではなく、露呈としての性

物語を通して、「音楽とは性行為の比喩なのではないか」という読みが自然に浮かびます。この理解は、決して的外れではありません。

ただし重要なのは、この体験が救済や回復として描かれていない点です。麗子は確かに強い快楽を感じますが、それによって世界と調和するわけでも、幸福になるわけでもありません。むしろ、自分の内部にあった「欠落」が、はっきりと露呈するのです。

三島は、性を解放の象徴として単純に描く作家ではありません。性はむしろ、理性の仮面が剥がれる瞬間であり、人間の空虚さや不完全さが露わになる場です。麗子の体験もまた、「音楽を感じられない女」が、別の形で快楽に触れたにすぎず、根本的な断絶は残されたままです。


5.近代人の完成と喪失――三島の根源的な批評

麗子という人物像を通して、三島が描き出しているのは、近代人の逆説です。近代人は、理性を獲得しました。社会的規範を内面化し、自己を統御し、言葉によって世界を理解する能力を高めました。しかしその代償として、感覚の野生性、身体の即応性、理由なき歓喜を失った。

麗子は、あまりにも「完成しすぎた」存在です。だからこそ、音楽を理解できても感じられながったのです。

私たちは、本当に「感じて」生きているのか。音楽を、他者を、身体を、世界を――理解しているだけではないのか。『音楽』は、その問いを音もなく鳴らし続けています。