ビートルズのドラマーはリンゴ・スターだが、リンゴはデビュー直前にバンドに加入した。
リンゴ以前に5人のドラマーがビートルズに在籍していた。
1 COLIN HANTON

Quarrymen時代のドラマーだ。
Quarrymenは地元リバプールのパーシー・フィリップス・スタジオで、自主制作レコードを作った。
パーシー・フィリップス・スタジオは、電気店を営んでいたパーシー・フィリップスがリバプールでスキッフルなどの音楽が流行っているのを見て、60歳を過ぎて、録音機材を手に入れ、自宅の一部を改装して作った録音スタジオだ。
Quarrymenはここで“That’ll Be The Day” と “In Spite Of All The Danger”の2曲を録音し1枚のレコードにした。
Quarrymenのメンバーは1枚のレコードを順番に手に取った。
自分たちのレコードができたのだから、さぞや嬉しかったに違いない。そのときのメンバーひとりひとりの喜びと興奮を俺は感じる。
このレコードはどういう経緯か不明だが、COLIN HANTONの手元に残った。
COLINは90年代になってレコードをポールに渡した。その音源はいまAnthology1で聞くことができる。
COLIN HANTONはその後、レコーディングのあと、ほどなくしてQuarrymenを脱退した。
2 TOMMY MOORE

トミーは、Silver Beatles時代、当時のマネージャーとしての仕事をしていたアラン・ウイリアムスの勧めで加入した。
(ここで、ぼくがマネージャー「としての」と留保を付けたのは、アラン・ウイリアムスが今の感覚のマネージャーと言えるかどうか怪しいからだ。今の言葉で言えば「ブローカー」が近いのかもしれないと考えているからだ。)
ジョンたちはBilly Fury(ビリー・フューリー)のバックバンドを決めるオーディションに参加することにした。
オーディションには、リバプールの主だったバンドがすべて参加していた。
3 JOHNNY HUTCHINSON

ここで大問題が起こった。ドラマーのトミーが来ないのである。
トミーはフォークリフトの運転士の仕事をしていた。ドラムの腕もよく、仕事とバンドマンの二股生活だった。
オーディションに遅れたのは、本業の仕事が終わらなかったからである。
オーディションの時間は迫っている。しかし、トミーは現れない。
仕方なく、オーディションに来ていたほかのバンドのドラマーが助っ人で演奏することになった。
代役になったのはザ・キャサノヴァズのJOHNNY HUTCHINSON。
ジョンたちがジョニーに頼んだのか、あるいはオーディションの主催者がジョニーにやらせたのかは定かでない。
想像としては、主催者がやらせたんだろう。
この主催者は、ロンドンのプロモーター、ラリー・バーンズである。プロモーターとしては大物だったようだ。
そして、シルヴァー・ビートルズはオーディションに臨んだ。上の写真はそのときの写真だ。
ぼくはかねがね、どうしてドラマーだけほかのメンバーとは違う色の服を着ているのかが疑問を持っていた。
それはこうした訳があったからである。
ジョニーはいやいや代役を果たした。
「どうして俺が遅刻しているドラマーの代役をしなけりゃならないんだ!」という不満が、写真のジョニーの表情から伺える。
3曲演奏したところで、トミーが現れた。
トミーがドラムを叩き、オーディションを終えた。
ラリーはシルヴァー・ビートルズをバックバンドとして選んだ。
しかし注文を付けた。
「ベースを変えてくれ。」
ベースのスチュワート・サトクリフはほとんど弾けなかった。
それなのに、どうしてバンドメンバーになったのか。
スチュ(スチュワートの愛称)は、見た目にカリスマ性があった。
ジョンはベースの演奏技術よりそのカリスマ性の外見に目を付けて、バンドに引き込んだのだ。
ジョンはラリーの申し出を断った。当然、バックバンドとしての話はなくなった。
しかしそれから10日ほどして、ラリーがジョンに連絡してきた。
「Johnny Gentle(ジョニー・ジェントル)というシンガーのバックバンドをやってくれ。」
こうしてシルバー・ビートルズはジョニーとともに、スコットランドへ演奏旅行に行くことになった。
4 NORMAN CHAPMAN

5 PETE BEST
