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ゴッホ《アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)》

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ゴッホは1888年3月に描いた。

2024年11月の風景(撮影F氏)

フィンセント・ファン・ゴッホにとって1888年は、まさに創作の頂点であり、同時に精神的危機の始まりでもある、極めて重要な転換の年でした。


  1. アルルへの移住(2月)

ゴッホは1888年2月、パリを離れ、南仏のアルルへ移住します。

彼はこの地に理想の「画家の共同体」を作るという夢を抱いていました。

南仏の明るい陽光と風景に魅了され、創作意欲が爆発的に高まります。


  1. 絵画制作の爆発的展開

アルル時代のゴッホは、1年のうちに約200点以上の絵画と100点近いドローイングを制作しています。代表作が数多く生まれました。

主な作品

《夜のカフェテラス》

《黄色い家》

《ファン・ゴッホの寝室》

《ひまわり》連作

《種まく人》

《星月夜の前奏的作品》(《ローヌ川の星月夜》)

これらの作品は、明るい色彩、渦巻くような筆致、強い感情の表出を特徴としています。


  1. ゴーギャンとの共同生活(10月〜12月)

ゴッホは10月に画家ポール・ゴーギャンをアルルに招きます。憧れとともに期待を寄せていました。

しかし、性格も画風も違う2人の共同生活は次第に緊張をはらみ、激しい口論を繰り返すようになります。


  1. 精神の崩壊と「耳切り事件」(12月)

1888年12月23日、ゴーギャンとの喧嘩の末、ゴッホは自らの左耳の一部を切り落とすという衝撃的な行動に出ます。

精神病院に収容され、以後、精神の不安定さが顕著になります。


ゴッホにとっての1888年

創造性が爆発した黄金の一年でありながら、

精神的には破綻の兆候が現れた危機の年でもありました。

この年に描かれた作品群は、彼の画業の中でもとりわけ重要で、今日でも高く評価されています。

1888年頃の西洋絵画は、19世紀末に向けて大きな転換期を迎えていました。以下のような動向が見られます。


  1. 印象派の成熟と展開

印象派(モネ、ルノワールなど)は1870年代に始まりましたが、1880年代後半にはやや落ち着き、個々の画家たちは独自の道を模索し始めます。

モネはジヴェルニーで連作に取り組み、「積みわら」や「ルーアン大聖堂」などの作品の準備をしていました。

ルノワールは古典的な構成や線描への回帰を試みていました(いわゆる「イングレス風」への傾斜)。


  1. ポスト印象派の台頭

1886年の第8回印象派展(最後の印象派展)以後、次の世代の画家たちが登場します。

ゴッホ:1888年にはアルルに滞在し、《夜のカフェテラス》《ひまわり》《ファン・ゴッホの寝室》など代表作を次々と描いています。ゴーギャンとの共同生活もこの年です(ただし悲劇的な結末に終わる)。

ゴーギャン:象徴主義的な傾向を強め、1888年はブルターニュのポン=タヴェンで《黄色いキリスト》などを描いています。

スーラ:点描技法(新印象主義)を発展させ、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884–86)で注目を集め、その後も理論的な作品を制作していました。


  1. 象徴主義とアカデミズムの混在

一方で、アカデミー・デ・ボザール(フランス美術アカデミー)に基づく伝統的な歴史画や宗教画も依然として主流の地位を保っていました。

同時に、文学や哲学と結びついた象徴主義が台頭。ギュスターヴ・モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌなどが象徴的な内容の絵画を展開していました。


  1. ヨーロッパ各国の動向

イギリス:ウィリアム・モリスによるアーツ・アンド・クラフツ運動が影響力を持ち、ラファエル前派の流れを汲む作品が多く見られました。

ドイツやオーストリア:まだ保守的な傾向が強いものの、若い世代はやがて「分離派」など新たな動きを起こす準備をしていました。


1888年とは

要するに、1888年は「印象派から次のステップへ」という、革新と伝統がせめぎあう重要な節目の年だったと言えます。

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