2025/12/20
蓬田修一
国家の安定性や民主化の可能性を考えるうえで、「権力」と「権威」を区別して捉えることは極めて重要である。権力とは、命令し、強制し、実行させる能力であり、軍事力、警察力、法制度、行政機構などに具体化される。一方、権威とは、人々が「それに従うことを正当だと内面から認める」正統性の源泉である。多くの国家では、この二つは必ずしも一致しないが、長期的に安定した政治秩序を維持するためには、両者が一定の形で両立している必要がある。
アメリカ合衆国における権威の所在
アメリカ合衆国は、この点で歴史的に非常に特異な国家である。大統領には強大な権力が集中しているが、大統領個人が「人格的権威」の体現者であるとは考えられていない。大統領は期限付きで権力を委託された公的管理者にすぎず、選挙で敗北すれば当然のように職を去る。ここには、王や皇帝のような象徴的・超越的存在への服従意識は存在しない。
では、アメリカにおける権威はどこにあるのか。それは主として三つの層に分散している。第一に合衆国憲法である。憲法は最高法規であり、政治権力の正統性はすべてここから派生する。第二に「We the People(人民)」という抽象概念である。人民は具体的な人格として体現されることはないが、すべての権力の正当性は人民主権に由来するとされる。第三に法と手続きである。選挙、議会、裁判といった制度的手続きが正しく行われたかどうかが、結果の受容を左右する。
このように、アメリカは人格的権威を意図的に排除し、抽象原理を権威の中心に据えることに成功した稀有な国家である。ただし、その代償として、社会が分断された際には「最終的に誰の言葉が正しいのか」が見えにくくなり、権威の共有が不安定化する危うさも常に内包している。
現代中国共産党政権における権力と権威
これに対して、現代中国共産党政権では権力の所在は極めて明確である。中国共産党が国家・軍・警察・監視体制を一元的に掌握し、強力な統制を行っている。しかし、問題は権威の所在である。
清朝以前の中国では、皇帝は「天命」を体現する存在として文化的・宗教的権威を持っていた。王朝は交代しても、「皇帝」という権威装置そのものは連続して存続していた。しかし清朝滅亡後、この装置は完全に消滅した。共和制的理念は社会に深く定着せず、国民国家的象徴も未成熟なまま推移した。
中国共産党は、マルクス主義を「科学的真理」として掲げ、革命の正統な担い手であることを通じて権威を構築しようとした。毛沢東個人は一時的に「擬似皇帝的」なカリスマ的権威を獲得したが、それは制度化されず、彼の死とともに消滅した。以後、共産党は理念的正当性を維持しようと試みてきたが、それが国民の内面に深く根付いた文化的権威にまで昇華したとは言い難い。
現在の中国では、皇帝も宗教的権威も存在せず、憲法や法が最終的権威として機能しているとも言い切れない。その結果、国民は権力には従うが、「内心から正当だと感じる権威の対象」は曖昧なままという構造が生じている。
両者の比較と含意
アメリカと中国を比較すると、その差異は鮮明である。アメリカは権威を非人格化し、抽象原理に託すことに成功した例外的国家である。一方、中国は伝統的な人格的権威を破壊したものの、それに代わる安定した権威を制度化することに成功していない。この差異は、ロマノフ王朝の不安定性、ソ連の崩壊、そして中国共産党政権の民主化困難性と一本の線で結ばれている。
民主主義は制度や理念を導入すれば自動的に成立するものではない。その背後には、権威と権力をいかに配置し、社会全体で共有できるかという、歴史的に形成された構造の問題が存在する。本稿で示した視点は、中国政治を理解するためだけでなく、近代国家そのものの成立条件を考えるうえでも重要な分析枠組みとなるだろう。