2025/11/27

わたしは近年、日中戦争(支那事変)のことを考えている。
日中戦争は昭和12年の盧溝橋事件が引き金となって、戦闘が拡大した。
盧溝橋事件の前年、昭和11年12月、張学良と楊虎城は国民党軍内で造反し、蒋介石を逮捕監禁して、共産党との一致抗日を迫った。
蔣介石は彼らの要求をのみ、共産党への攻撃を中止し第二次国共合作を成立させた。
その後、華北において、宋哲元軍(第二十九軍)や東北軍が41万の兵力でもって、日本軍を包囲するかたちをとった。このときの日本軍兵力は五千であった。
徐州方面でも中央政府軍が三十五万の軍隊をもって北上の機会をうかがっていた。
華北では日中両軍の緊張は高まっていた。
昭和12年7月7日、北京郊外の盧溝橋近辺で、演習を終えた支那駐屯軍第一連隊一木(いちき)大隊に突如、中国側からと思われる銃弾が数発撃ち込まれた。
さらに日本軍兵士1名が行方不明となった(のちに見つかる)。
しかし日本は戦闘の不拡大方針を堅持していたので応戦は控えた。
翌8日夜明け以降も、不審な発砲を繰り返し受けた。
それでも7時間、応戦は控えたが、ついに日本軍は中国軍を攻撃し、制圧した。
これが盧溝橋事件である。
下の映像は、タリバンのスナイパーが米軍兵士を襲撃したときの様子だ。
一発の銃弾が米軍兵士の頭をかすめた。
これに対して米軍は重機関砲で攻撃、不十分だと認識すると、戦闘機2機による爆撃を行った。
戦闘地域で敵から攻撃を受けたとき、軍隊はこのように応戦するのである。
盧溝橋で敵から執拗に攻撃を受けた日本軍が取った行動は、当然であろう。