2025/11/25

わたしはウォークマンについて、常々考えていたことがあった。試みに、文化的アプローチから批評のようなものを書いてみた。

ウォークマン1号機後期型。わたしはこのウォークマンを持っていた。1980年頃、秋葉原のガード下で買ったのを覚えている。

1970年代末、ソニーはウォークマンを発売した。多くの人が携帯電話やスマホが社会にもたらした大きなインパクトをいろいろ述べているが、新しい機器の出現ということでは、

わたしにとってもっとも大きな出来事はウォークマンだった。

ウォークマン以前、音楽は自分の部屋でひとりで聞くもだった。あるいは親しい友人と聞いた。

友人が運転免許を取り、彼が運転するクルマの中で、カーステレオで音楽を聞いた思い出も懐かしい。

つまり音楽を聴くという行為は、とても密室的で、 静的な行為だった。

それがウォークマンによって、音楽を聴く行為が一気に外界へと開かれた。

わたしはそのときの気持ちを覚えているが、とても違和感を覚えた。

なんか嫌な時代になったな、という感じだった。

ウォークマン以前は、新しい機器が開発されると、とても便利になって喜んでいたと思う。しかし、ウォークマンだけは、私の反応は違った。

そこで、ウォークマンについて、文化的なアプローチから考えてみたい。

☆   ☆

ウォークマンの出現は「ポータブル音楽機器」の開発という技術史だけに還元できるものではない。

文化的・社会的な大事件であった。

ウォークマン以前は、始めに書いたように、音楽は部屋の中で聞くものであり、音楽は部屋の中に留まるものだった。

音楽を聞くには部屋という空間が必要だった。

音楽は空間と密接に結びついていた。そこでは、ひとりで音楽と向き合ったり、友人と音楽を聞いて語らったりと豊かな時間が流れていた。

ウォークマンはこの前提を根底から覆し、音楽を空間に属するものから、身体に随伴するものへ転換した。これは音楽の受容ということからいえば文化的大革命だ。

音楽は「空間」ではなく「個人」に属するものとなり、完全に私的領域に閉じ込められたものへと変質した。

それまで音楽が持っていた「空間性」が失われた。

そこにわたしは違和感を感じ、「嫌な時代が来たのかも」という気持ちを抱いたのである。

☆   ☆

ウォークマンを身に付け、音楽とともに歩く、電車に乗る、街を歩く──。
それはウォークマン以前の文化史には存在しなかった、新しい身体様式だった。

この変化は、音楽がいつでも聞ける、という単なる「便利さ」の問題ではない。

人が都市空間をどう経験するか、そして都市が人の心理にどう作用するかという、

人と都市との関係性を大きく変えた。

ヘッドホンで外界の音を遮断することは、都市生活の最大の特徴である「他者のノイズ」を消すことだった。

他人の話し声、工事音、電車の軋む音──。ウォークマンはそれらを意図的に退けた。

これは、都市が個人に押しつけるノイズからの自立であると同時に、都市との共有性を切り捨てる行為でもあった。

しかし、ここまでは両手を耳を塞いだり、耳栓で外界の音を遮断するのと変わらない。

ところがウォークマンは、人と都市との関係性を変え、新たな関係性を作り出した。これがウォークマン最大の革命だったと思う。

それはどういうことか。

ウォークマンは世界そのものを“自分のBGM”として私物化する感覚を生み出した。

街の雑踏さえ、自分の音楽によって編集される。
駅までの道も、満員電車も、歩道橋から眺めるクルマの流れも、音楽によって自分仕様の“映画のワンシーン”になった。

この私物化という感覚は、その後のデジタル技術の発展によって、さらに深まっていったと思う。

ウォークマンは世界を私物化する文化の原型をつくった。