2021年12月12日撮影

説明文より

魚文は三級亭魚文と称し、芭蕉の高弟、服部嵐雪の直系大島夢太の高弟で、1700年代(江戸後期)の蕉風復活に力をつくした人です。

平明な俳風に特色があり、師の夢太も『筑波紀行』などを書いているので、魚文も師と同様に旅に出て、途中鎌ヶ谷を通過したときにこの句を詠んだものと思われます。

木下街道は江戸時代、江戸から下総・常陸に至る道筋として、特に下利根川方面に直行できる最短路として貴重な脇往還で、行徳河岸(現市川市)と木下河岸(現印西市)の全長約9里(約36キロメートル)を結んでいました。

江戸時代、主要街道以外は定まった名称はなく、通行者の目的により異なった名称でよばれ、木下街道も「鹿島道」「銚子道」「印西道」「江戸道」「行徳道」など様々に呼ばれていました。

俳人松尾芭蕉が『鹿島紀行』を著した貞享4年(1687)の旅もこの道筋を通ったといわれています。

文化・文政期 (1804~30) 頃からは香取神宮、鹿島神宮、息栖神社の「三社詣」や銚子、下利根川観光のため、一般民衆の往来が活発化し、多くの文人墨客も通りました。

ひとつ家へ人を吹込む枯野かな

明和元年(1764年)

魚文の碑は、右側の四角い石柱。

左側の石碑は、大正14年(1925) の村道改修碑。