2025/12/17
YOMO

私は現代美術を好み、長年にわたって美術館で作品を見てきた。鑑賞の際に重視してきたのは、理屈よりもまず直感である。作品を前にして「いいな」と感じるかどうか。

その感覚が立ち上がったとき、私は作品の前に長く留まり、素材やかたち、空間との関係をじっくり味わう。

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これまでたくさんの現代アート作品を見てきて、なかには作品というより作家の思想やイデオロギーを前面に押し出した「活動」と呼ぶべきものも少なくないことに気付いた。

社会状況や国際情勢に敏感に反応する姿勢自体は理解できるが、造形や感覚が思想の従属物になっていると感じるとき、私は強い違和感を覚える。

その違和感は、拒絶というよりも、「美術は本来、別の次元で人に働きかけるのではないか」という問いとして、私の中に残り続けてた。

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近年、私は素人なりに絵画を描き、小さな彫刻をつくるようになった。つくる側に立ってみると、鑑賞者として感じてきた違和感や直感が、単なる好みではなく、自分の中の価値観や世界観に根ざしたものだったことが、次第に明確になってきた。

私が作品制作において目指したいのは、

人々の中にすでに備わっている美の感覚を、静かに呼び覚ますような表現である。

この考えを支えているのが、私が若い頃から親しんできた儒学、特に陽明学の思想である。

陽明学は、人間は本来的に良い性質を持っていると考える。もしその良さが現れていないとすれば、それは能力が欠けているからではなく、心が曇っているからだという。

ガラスの曇りを拭えば、もともとそこにあった透明さが現れるように、余計なものを取り除けば、人は本来の良さを取り戻すことができる。

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この教えは、美術鑑賞について考えるとき、非常に示唆的である。

美を感じ取る力は、専門教育や理論によって後から与えられるものではなく、もともと人間の内側に備わっている。

問題は、その感覚が、情報や評価基準、イデオロギーによって曇らされてしまっていることである。作品は、新たな価値観を押しつけるための道具である必要はない。

むしろ、

見る者の感性の曇りをそっと拭い、「本当は感じ取れるはずだったもの」を思い出させる存在

でありうる。

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私が創作において心がけたいのは、

意味や主張を急がない

ことである。何を言いたいのかを先に決めすぎると、造形や素材はその説明のための手段になってしまう。

そうではなく、色やかたち、重さや手触りと向き合いながら、

自分の感性が澄んでいるか

を問い続けたい。

陽明学でいう「致良知」とは、知識として理解することではなく、行為の中で良知を徹底的に発現させることである。制作とは、まさにその実践にほかならない。

現代美術の世界では、強いメッセージや明確な批評性が評価されやすい。

しかし、

人間を信頼し、静かに感性に働きかける表現

は、声高ではないが、長い時間をかけて人の内側に残る力を持つ。

印象派の画家たちが、光の移ろいに夢中になり、世界の見え方そのものを変えたように、感覚に賭ける表現は、社会に対しても深いレベルで作用しうる。

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私は、伝統や歴史を否定することで新しさを得たいとは思わない。

むしろ、

過去から受け継がれてきた感性や美意識を、現在においてもう一度取り戻す

ことに関心がある。それは保守でも懐古でもなく、今を生きる人間としての誠実な態度だと考えている。

美は外から与えられるものではない。そのことを信じ続ける姿勢こそが、私の創作の出発点であり、これからも変わらない軸でありたい。