LITERATURE

ぼくは、日本の近代文学を学んでいる。

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ぼくは日本近代文学を勉強している学生だ。

この前、大学の授業で文学史を学んで、日本近代文学においては、リアリズムが重要な役割を果たしていることを知った。

明治時代期、日本の文学者たちは、フランス人作家エミール・ゾラが提唱する自然主義を日本に導入した。

ゾラの唱える自然主義は、自然科学の視点から、人間の行動や一生を客観的に解明しようするものだった。

ところが、明治の日本人文学者はなぜか、ゾラの自然主義を人間の本質を赤裸々に描くリアリズムと受け止め、自分たちの文学を発展させていった。

そういうことがあって、日本の文学はその後、人間の欲望や社会の矛盾を深く掘り下げる方向へと進んだ。

またそれが、読者である一般日本人の感性と合う部分があった。

☆     ☆

先生は19世紀、ヨーロッパの文学者たちが考えていた文学のリアリズムについて、こう説明した。

ひとつは、等身大の人間を描こうとしたことだ。

リアリズム以前の文学に出てくる人物は、人間と等身大ではなかった。

魔法が使えたり、怪力だったり、からだの大きさが人間離れしていたり、といった具合だ。

もうひとつは、語りを透明化したことだ。

リアリズム以前、作品には語り手が全面に出ていた。

リアリズム文学では、語り手は見えなくなり透明になった。

☆     ☆

ぼくは「三人称単視点」という手法を授業で知った。

「単視点」とは、ひとりの人物の視点から離れないことだ。

日本のリアリズムは、三人称単視点の手法で進んでいった。

一方、本家のヨーロッパでは三人称複視点が多い。

ひとつのセンテンス、パラグラフの中に、何人もの人物からの視点が書き込まれている。

日本のリアリズム文学では、三人称複視点が育たなかった。

日本のリアリズム文学の嚆矢は、二葉亭四迷の「浮雲」だが、主人公の内海文三が書かれた部分は、三人称単視点の手法で成功したが、お勢や彼女の母親などが出てくる場面では、三人称複視点の手法が成功せず、江戸時代の戯作になってしまった。

志賀直哉は、日本のリアリズム文学における「三人称単視点」を洗練させていき、ひとつの頂点を作った。

そして、日本独自の「三人称単視点」による私小説が育っていったのである。

先生はこう言う。

「日本語のリアリズムをどう作るか?日本には、本格的なリアリズム小説はまだないのではないか?」




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