中華民国第7代総統 蔡英文
副総統 陳建仁(14期)頼清徳(15期)
任期 2016年5月から2024年5月まで
父親
英文の父・蔡潔生(1918 – 2006) は枋山郷出身の豪商。
『商業周刊』の報道によれば、蔡潔生は四人の女性と家庭を持ち、英文の母は張金鳳 (1924 – 2018)。子供は合わせて11人で英文は末子。
潔生は18歳の時に 日本軍による南洋作戦への徴用を避けるために中国大陸に渡り、満洲国の満洲機械学校で飛行機修理を学んだ。
太平洋戦争で日本が降伏したのちに台湾に戻り、自ら創業して貨物運送所を開設する。
台北市へ移って自動車整備工場を開設して輸入車整備業務に参入し、駐台米軍と外国人顧問の相手を専門にして事業を営み、60歳近くで不動産業、建築業及びホテルビジネスに参入する。
中山区の中山北路と新生北路一帯に少なくない不動産を購入して富を得た。
蔡英文
英文のパイワン族名は「Tjuku」で、「頭目の娘」という意味である。
家系図によれば本来は「蔡瀛文」と命名されるはずであったが「瀛」は画数が多く、父親の蔡潔生が「瀛」を音が似る「英」に換えて「蔡英文」とした。
中山女高を卒業した後、父親の勧めで法学を学び、1978年に台湾の国立台湾大学法学部を卒業。
1980年にアメリカのコーネル大学ロースクールで法学修士、1984年にイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士、帰国後に国立政治大学及び東呉大学の教授に就く。
国民党政権下の1990年代に、行政院経済部の国際経済組織首席法律顧問、経済部貿易調査委員会委員、行政院大陸委員会委員、行政院公平交易委員会委員、公正取引委員会委員、著作権委員会委員などを務め、1999年に李登輝総統が発表した中台関係の新定義、いわゆる「二国論」(「特殊な国と国の関係」論)にも深く関わった。
民進党が政権を獲得した2000年5月、中台関係の政策を受け持つ行政院大陸委員会の主任委員に就任。
2004年に民進党へ入党し、同党から同年の立法委員選挙に立候補して当選し、2006年1月から2007年5月まで行政院副院長(副首相)を務め、同時に消費者保護委員会委員を務めた。
退任後はバイオテクノロジー企業タイメッド生物製剤の社長に就任するが、国民党から「行政院副院長時代に同社に優先的に外注した見返りの天下り」として批判を受けるが、この疑惑は事実無根であることが証明されている。
民進党が下野した直後の党主席選で対抗馬の辜寛敏や蔡同栄に圧勝し、2008年5月21日に第12代主席に就任した。代理で就任した人物を除くと、民進党初の女性党首である。
国民党の馬英九政権の親中政策への批判が高まる中、蔡の下で民進党は2009年中華民国地方選挙で党勢を盛り返した。
2010年5月、第13代主席に再選。11月に実施された地方選挙の一つとして行われた新北市初代市長選挙に出馬するも、国民党の朱立倫に惜敗した。
2012年1月14日実施の総統選の民進党公認候補として、再選を目指す国民党の現職の馬英九と次期総統の座を争ったが敗れ、投開票が行われた14日夜に党主席辞任を表明、3月1日付での辞任を了承された。
2014年3月15日、党主席選挙へ立候補を表明した。現職の蘇貞昌と有力候補の謝長廷がひまわり学生運動の影響を受け立候補を取り下げたため、党主席に選出された。
2014年中華民国統一地方選挙で躍進して党内基盤を確立し、2015年2月15日に次期総統選候補者に選出される。10月に訪日して日本政府高官や与野党幹部らと会談した。
2016年1月16日、2016年総統選で国民党の朱立倫、無所属の王如玄、親民党の宋楚瑜、民国党の徐欣瑩を破り、初当選した。得票数で2位の朱立倫を300万票以上上廻り勝利し、中華民国初の女性総統となる。
※引用はすべてWikipedia