2026/2/1
蓬田修一
わたしたちにとって文学は、まず「読む楽しみ」から始まります。物語に心を動かされ、登場人物に共感し、ときには人生について考えさせられる。こうした読み方は、古代から現代に至るまで、文学の基本的な受け止め方でした。
その一方で、文学作品をどう読むべきかを論じる営み――いわゆる文学批評――があります。これは、決して新しいものではありません。古代ギリシアでは、プラトンが詩や物語を「模倣」と捉え、それが人間にとって有益かどうかを問いました。アリストテレスは『詩学』で、悲劇の構造や効果を分析し、作品そのものの成り立ちを論じています。ここではすでに、文学を感情だけでなく、一定の視点から捉え直そうとする姿勢が見られます。
中国や日本にも、早くから文学を論じる伝統がありました。中国では劉勰の『文心雕龍』が、文学表現や感情のあり方を体系的に論じていますし、日本でも『古今和歌集』仮名序や、本居宣長の「もののあはれ」などが、文学の価値を言葉にしてきました。ただし、これらの批評は多くの場合、読みの自由は今ほど大きくはありませんでした。
文学批評が大きく変わったのは、18〜19世紀のヨーロッパです。宗教や道徳が絶対的な価値を失い、市民社会が広がる中で、文学は「教訓を与えるもの」から「個人の内面や感情を表現するもの」へと性格を変えていきました。この時代、フランスやイギリスでは、作品を作者の意図や社会的役割から切り離し、作品そのものとして読む姿勢が強まっていきます。
19世紀後半から20世紀にかけては、その流れがさらに進みます。作者の人生を重視する批評もあれば、逆に作者の存在をいったん脇に置き、言葉や構造だけを読む方法も現れました。ここで重要なのは、批評が「正解を示すもの」ではなく、「新しい読み方を提示する行為」へと変わっていったことです。作品は一つの意味に固定されるものではなく、読む人や時代によって、何度でも読み直される存在だと考えられるようになったのです。
この流れを踏まえると、文学作品の「鑑賞」と「批評」の違いも見えてきます。鑑賞とは、作品を読んだときに生まれる個人的な心の動きです。感動、違和感、共感、反発――そうした内面的な反応は、誰にとっても大切な出発点です。一方、批評とは、その内面的な体験を言葉にし、外に向けて差し出す行為だと言えるでしょう。「私はこう読んだ」という個人的な経験を、「この作品はこうも読めるのではないか」という形で共有すること。それが批評です。
批評とは専門家だけのものではありません。文学をよく読み、作品に対して誠実に向き合ってきた人であれば、誰でもその一歩を踏み出すことができます。大切なのは、これまでの作者の評価をなぞることでも、難しい理論を振りかざすことでもありません。その作品を自分なりに解釈して、他社と共有する行為だと思います。
文学批評の歴史は、読む自由が少しずつ広がってきた歴史といってもいいでしょう。楽しみとして読むことから始まり、考え、語り伝える。文学を愛する読者が、読んで楽しむ行為の次の一歩として批評に関心を持つことは、とても自然で健全です。
文学作品を読んで感じた感動や違和感などを、外へ開いていく行為が批評です。それはとても自由な行為なのだと思います。