2026/1/31
蓬田修一

「日本は人口の割に大学が多すぎるのではないか」

2025年度の大学の定員割れは53.2%でした 前年度は59.2%で6ポイントほど改善しましたが、これは一時的に受験者が増えた、さらに大学の入学者枠を減らした、などが背景にあり、今後も定員割れ傾向は続くでしょう。

少子化が進み、定員割れの大学が増えるなかで、冒頭のような声を耳にする機会は少なくありません。大学生の学力低下が話題になると、その議論はいっそう強まります。しかし、この前提は本当に妥当なのでしょうか。ここでは、日本とアメリカの事例を手がかりに、「大学が多すぎる」という見方そのものを問い直してみたいと思います。

日本にはおよそ800の大学があります。人口約1億2000万人という規模を考えると、たしかに「多い」と感じる人もいるでしょう。ただし、この数字をもって直ちに「過剰だ」と結論づけるのは早計です。なぜなら、大学の数は単独で評価できるものではなく、「どのような役割を果たす大学が、どのような層に向けて存在しているのか」という全体像とセットで考える必要があるからです。

よく比較対象に挙げられるアメリカには、約4000の大学やカレッジが存在すると言われています。人口は日本より多いとはいえ、人口比で見ても、アメリカは日本以上に多様で数の多い高等教育機関を抱えています。にもかかわらず、アメリカで「大学が多すぎる」という議論が、日本ほど感情的に語られることはあまりありません。

その背景には、大学の役割分担の明確さがあります。アメリカでは、研究を主軸とする大学、地域の人材育成を担う州立大学、学び直しや職業訓練を重視するコミュニティ・カレッジなど、高等教育機関の性格がはっきり分かれています。すべての大学が同じ水準の学力や同じ教育成果を求められているわけではありません。学力が必ずしも高くない学生が在籍する大学も制度の一部として位置づけられており、それ自体が「質の低下」とは直結しません。

また、アメリカでは「入口」よりも「出口」が重視されます。大学に入ること自体は比較的広く認められていても、学業についていけなければ単位を落とし、場合によっては退学や転学を選ぶことになります。学力にばらつきがある学生が大学に存在することは前提であり、最終的に何を修得し、どのように社会へ出ていくのかが評価の対象になります。

一方、日本の大学は、研究大学から教育中心の大学まで幅があるにもかかわらず、その違いが社会的に十分共有されているとは言い難い状況にあります。「大学である以上、一定水準の学力を持つ学生がそろっているべきだ」という意識が、根強くあります。そのため、学力に幅のある学生が「大学生」という一括りで語られ、問題が学生個人の資質に帰されやすくなります。

さらに、日本では入学した学生の多くが卒業まで進む傾向が強く、その結果、「学力が十分でないまま卒業する学生」が可視化されやすくなり、「大学教育の質そのものが下がっているのではないか」という疑念につながります。しかし、これは学生の質が一方的に低下したというより、大学が担っている役割の幅と、それに対する社会の理解が追いついていないことの表れとも言えます。

もう一つ見逃せないのは、日本では大学が事実上、若者にとってのセーフティネットになっている点です。職業教育や再教育の選択肢が十分に整っていないなかで、「とりあえず大学へ行く」ことが現実的な進路となっています。本来であれば多様な教育ルートが支えるべき若者を、大学が一手に引き受けている構造が、「大学が多すぎる」「大学生の質が低い」という印象を強めている側面もあります。

こうして考えると、「日本は大学が多すぎる」という言葉は、数の問題というよりも、大学に期待される役割が整理されないまま拡大してきたことへの違和感の表現だと捉えることができます。アメリカのように大学の機能が明確に分かれている社会と、日本のように大学が幅広い役割を背負ってきた社会とでは、同じ「大学の数」でも意味が異なります。

問うべきなのは、大学を減らすべきかどうかではなく、日本社会において高等教育がどのような役割を担い続けるのか、そしてそれを支える制度や選択肢が十分に用意されているのか、という点でしょう。大学が多いか少ないかという議論を一歩進め、大学のあり方そのものを考え直すことが、いま求められているのではないでしょうか。