2026/1/4
M&C・蓬田修一

大学における文学部、そして文学教育・文学研究の意義については、近年しばしば「実用性」や「就職との関係」という観点から疑問が投げかけられてきました。文学部不要論という言葉が象徴するように、社会の即戦力を育てることが大学の第一の役割であるならば、文学は遠回りで、役に立たない学問ではないかという疑問です。しかし、わたしは、文学教育と文学研究は、むしろ現代社会においてこそ必要性を増している分野であると考えます。

文学を学ぶということは、単に名作を味わい、感動することではありません。文学作品は、書かれた時代の社会状況、政治、思想、価値観と深く結びついています。森鴎外や夏目漱石が近代国家の成立と個人の葛藤を描き、三島由紀夫が戦後社会の空虚や美の問題を極限まで突き詰め、村上春樹や村上龍がグローバル化や消費社会の中での個人のあり方を描いてきたように、文学は常に時代と対話してきました。文学研究とは、その対話の痕跡を丁寧に読み取り、人間と社会の関係を考え直す営みという面が大きいです。

こうして考えると、文学部は「過去の作品を読む場所」ではなく、「人間や社会をどう理解するかを訓練する場」です。文学作品には、明確な正解が用意されていません。登場人物の行動や語りの意味、物語の結末について、読み手は自分なりに考え、根拠を示しながら解釈を組み立てる必要があります。この過程で培われるのが、「問いを立てる力」と「一つの答えに飛びつかない態度」です。これは、政治や教育、企業活動など、複雑な利害や価値観が交錯する現代社会において極めて重要な能力です。

もっとも、学部段階の学生にとって、いきなり高度な問いを立てることは簡単ではありません。社会経験も限られ、読書量にも個人差があります。このため、大学の文学教育では、教員は問いを最初から学生に丸投げせずに、作品のどこに注目すべきか、どのような読みの手続きがあるのかを具体的に示します。言葉の繰り返し、不自然な比喩、語りの視点の揺れなど、テクストそのものから観察できる点に焦点を当てることで、人生経験の差に左右されない読解の入り口を用意します。

また、文学教育では「よくわからない」という感覚が大切にされます。感動した理由が説明できない、何となく読みづらい作品だと感じた、といった違和感は、問いの芽です。教員はそれを否定せず、「どこで、なぜそう感じたのか」を言葉にする手助けをします。ここで重要なのは、自分の理解の限界を自覚し、それを丁寧に考え直す姿勢です。この態度は、複雑な問題に直面したときに拙速な結論を避ける力につながります。

さらに、ゼミなどの少人数教育では、他者の読みを聞く経験が重視されます。同じ作品を読んでも、感じ方や解釈が異なることを知ることで、自分の視点が相対化されます。教員は正解を示す権威としてではなく、議論を整理し、思考を深める案内役として関わります。この過程で学生は、異なる意見を排除するのではなく、理解しようとする態度を身につけていきます。

文学を研究するとは、時間的な視野を広げます。文学作品は過去のものであっても、現在の私たちの問題意識と結びついて読み直されます。作品の時代背景を学ぶことは、過去をそのまま理解するためではなく、現在を相対化するためです。異なる価値観や社会のあり方に触れることで、「今の常識」は絶対ではないことに気づきます。この感覚は、政治や教育を考える上でも欠かせません。

確かに、文学部で学んだ知識がそのまま職業技能になることは多くありません。しかし、文学教育を通して培われるのは、問題を発見し、言葉で考え、他者と共有する力です。これは短期間で測定できる成果ではありませんが、社会のさまざまな場面で長く効いてくる力です。

大学における文学教育と文学研究の意義は、即効性ではなく持続性にあります。人間と社会をどう理解し、自分をどう育てていくのか、という根本的な問いに、粘り強く向き合う姿勢を育みます。文学部は、派手ではありませんが、社会の思考の基盤を静かに支える場所であり続けているのです。

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