2026/1/3
M&C・蓬田修一

三島由紀夫の作品は、物語として理解しようとすると、どこか距離があり、感情移入もしにくい。しかし同時に、強く張りつめた何かが作品全体を貫いていて、それが読後も長く心に残る。その正体を考えていくうちに、私の中で自然に結びついたのが、西洋絵画のラファエル前派や象徴主義から感じられる精神性でした。

ラファエル前派や象徴主義の作品において、画面に描かれている人物や風景は、現実離れしており、生活の匂いが希薄です。その代わりに、画面全体からは強い緊張感や理念の密度が伝わってきます。彼らが描こうとしたのは、目に見える世界ではなく、その背後にある観念や精神の状態です。

三島由紀夫の文学からも、わたしはこれと非常によく似た印象を抱きます。三島は、人間の日常や感情の自然な流れを丁寧に追う作家ではありません。登場人物たちは、私たちの隣にいそうな存在というより、ある理念や価値を体現するために配置された像のように見えます。そこでは「美」や「純粋さ」、「完全性」といった抽象的な価値が、人物や物語の形を借りて立ち上がってきます。

そのため、三島作品を読むと、感情的な共感よりも先に、精神的な圧力を感じることになります。読み手に寄り添い、慰め、理解されようとする文学とは明らかに違います。

三島由紀夫は、小説を書くことで自分の感情を吐露した作家ではありません。感情を素材として、徹底的に磨き上げ、精神の造形物へと変換した作家です。その意味で、彼の作品は「読むもの」であると同時に、「見るもの」「感じ取るもの」でもあります。彫刻や絵画を前にして、言葉にしきれない圧力を感じる体験をしたことがありますが、三島作品はそれに近い印象を持ちます。

三島作品を読むとき、わたしは作品の前に立たされ、試されているような感覚を抱くことさえあります。この「居心地の悪さ」こそが、三島文学の大きな特徴であり、同時に魅力でもあるのだと思います。