2026/1/1
M&C・蓬田修一
紫式部『源氏物語』と森鴎外『舞姫』は、ともに主人公の内面を描いた作品です。どちらも、登場人物の感情の揺れや迷い、喜びや悲しみが丁寧に描かれています。しかし、この二つの作品が文学史の中で置かれている位置は、決定的に異なります。その違いを一言で表すならば、『源氏物語』は主人公の内面を描いてはいるが自我を描いてはいない作品であり、『舞姫』は主人公の自我そのものを描いた作品である、という点にあります。
まず『源氏物語』について考えてみましょう。光源氏は、恋に悩み、別れを嘆き、人生の無常に心を痛める人物です。その心理描写の繊細さは、千年を経た現在でも驚くほどです。しかし光源氏は、「自分とは何者なのか」「自分はどう生きるべき存在なのか」といった問いを、根本的な問題として自分に突きつけることはありません。彼の感情は常に、身分秩序、恋愛関係、宮廷社会のしきたり、季節や自然の移ろいといったものの中で生じ、処理されていきます。
言い換えれば、『源氏物語』における内面とは、「個人の内部に閉じたもの」ではなく、「世界や関係性の中で自然に生まれるもの」です。悲しみは悲しみとして流れ、後悔は後悔として受け止められますが、それが「自己とは何か」という問いにまで発展することはありません。
光源氏は、自分の感情を疑いませんし、自分の存在そのものを問題化しません。これは欠点ではなく、むしろ当時の世界観の表れです。個人は世界の中に深く組み込まれており、自分自身を世界から切り離して考える必要がなかったのです。
これに対して、森鴎外の『舞姫』の主人公・太田豊太郎は、まったく異なる内面の在り方を示します。彼は自分の感情を意識しすぎるほど意識し、それを言葉にし、振り返り、後悔します。彼の内面には、「自分はなぜこうしてしまったのか」「自分は本当は何を望んでいたのか」という問いが、絶えず渦巻いています。ここで描かれているのは、感情そのものよりも、感情を持つ自分を見つめる視線です。
豊太郎は、国家に仕える官僚としての自分と、一人の人間として愛を求める自分とのあいだで引き裂かれます。このとき彼は、その葛藤を「仕方のないもの」として受け流すことができません。自分の選択を反省し、自分の弱さを自覚します。
この違いは、文学史的にきわめて重要です。『源氏物語』が成立した平安時代の日本には、近代的な意味での「個人」や「自我」という概念は存在していませんでした。人は関係の中で生き、役割の中で感情を抱き、世界と調和しながら存在していました。一方、『舞姫』が書かれた明治期の日本は、西洋近代思想の流入によって、個人が国家や社会から切り離され、「自分自身としてどう生きるか」を問われる時代でした。
つまり、『源氏物語』の内面は世界に溶け込んだ内面であり、『舞姫』の内面は世界から切り離され、自己を問題化する内面なのです。この差こそが、両作品の文学史的な位置づけを決定的に分けています。
『舞姫』が日本近代文学の出発点とされる理由は、単に内面を描いたからではありません。内面が裂け、自己が自己を見つめる構造が初めて明確に描かれたからです。この構造は、その後の夏目漱石や志賀直哉、太宰治といった作家たちに受け継がれ、日本文学の大きな流れを形作っていきます。
一方で、『源氏物語』は近代文学の「前段階」だから価値が低い、ということでは決してありません。むしろ、世界と個人が深く結びついていた時代の感受性を、これほど豊かに描き切った作品は他にありません。両者は優劣の関係ではなく、人間が世界の中でどう存在していたか、その在り方の違いを示す対照的な到達点なのです。