2025/12/18取材

街場に残る成人映画館──都市が抱えてきた性文化の残存

2025/12/21
蓬田修一

近年、映画館は商業施設の一角に組み込まれる存在となった。ショッピングモールなどに併設されたシネマコンプレックスは、明るく、清潔で、効率的である。上映作品も客層も管理され、観客は健全な映画体験をそこで味わう。一方で、昭和の時代から街場に残り続けている映画館も、数は少ないながら確かに存在している。とりわけ成人映画館は、その存在自体が都市の時間軸がずれたような感覚をわたしに与え、別の都市像を提示している。

上野公園近くにあるオークラ劇場も、そうした街場の映画館のひとつである。わたしが劇場の前を通り過ぎただき、平日の昼間にもかかわらず、中年男性が思いのほか頻繁に出入りしていた。映画館の建物を写真に撮ろうと思ったが、来館者を(特定できるかたりで)入れて撮影してはまずいと思い、人が途切れるのを待ったが、なかなか時間がかった。この出入りが光景は、現在の都市においてはやや異様に映るかもしれない。しかし、その「違和感」こそが、この場所の文化的意味を考える手がかりとなる。

成人映画館は、長らく単なるポルノの上映施設として理解されてきた。しかし文化史的に見れば、それはきわめて表層的な理解にすぎない。1970年代から90年代にかけて、日本各地の成人映画館は、男性同性愛者にとっての出会いの場、いわゆるクルージング・スペースとして機能していたことが、都市社会学やセクシュアリティ研究の分野で指摘されている。暗さ、匿名性、長時間滞在が可能な構造、そして男性客のみが集まるという条件が重なり、成人映画館は「意図せずして」半公共的な出会いの場となった。

重要なのは、この機能が当時の社会状況と密接に結びついていた点である。同性愛が公に語られることは少なく、専門のバーやコミュニティは存在していたが、成人映画館は制度の外側にある人々を受け止める「余白」となった。これは日本に特有の現象ではなく、欧米でも映画館や公衆浴場、駅構内などが同様の役割を担ってきた。つまり成人映画館は、近代都市が抱え込んできた「語られない欲望」を静かに収容する装置だったのである。

では、その役割は現在も続いているのだろうか。結論から言えば、かつてのような中心的機能ではなくなったが、完全に消滅したとも言い切れない。インターネットやマッチングアプリの普及、LGBTQ+の可視化、新宿二丁目のような明示的なコミュニティ空間の成立により、出会いの主戦場は明らかに変化した。しかしその一方で、高齢層やデジタル環境に親和性の低い人々、あるいは徹底した匿名性を求める人々にとって、街場の成人映画館はいまなお意味をもつ空間であり続けていることを感じる。

上野という場所性も見逃せない。上野は、古くから盛り場であり、観光客、単身者、高齢者、労働者が交錯する流動的なエリアである。こうした場所には、都市の秩序からわずかに逸脱した行為や関係性が、黙認される形で生き延びる余地が生まれる。オークラ劇場が長年存続してきた背景には、上野という街が持つ「受容の幅」があるだろう。

わたしの成人映画館をめぐる文化的関心の中心は、「いまも出会いの場なのか」という機能の有無よりも、「なぜ、まだ残っているのか」という点にある。シネコンが象徴する管理された娯楽空間に対して、街場の映画館は、効率的でないし、そこには時間の滞留があり、個々人の事情が折り重なり、都市の無意識が沈殿している。

成人映画館は、性の表象を扱う場所であると同時に、都市が公には引き受けないものを抱え込んできた空間である。その役割は時代とともに縮小し、変容しているが、完全に代替されたわけではない。むしろ、都市から余白が失われつつある現代において、こうした場所の存在は、私たちに問いを投げかけている。都市はどこまで人間の多様な欲望や孤立を許容できるのか。すべてが可視化され、管理されていく傾向の社会において、匿名でいられる空間はどこに残されるのか。

街場の映画館、とりわけ成人映画館は、昭和の遺物として消えゆく存在ではない。それは、都市が抱えてきた性をめぐるひとつの文化が、かろうじて形を保っている場所である。そして、可視化・管理化されるいまの社会において、個人が匿名性を保てる場所として残っているのである。