2025年8月13日調査

正式名称は藤原秀郷古墳ではない。わたしが便宜的に付けた名称だ。
藤原秀郷の墳墓である。
正式名称は東明寺(とうめいじ)古墳という。
藤原秀郷を祀る前は、恐らく古墳であったと思う。古墳を利用し、秀郷の墳墓としたのではないか。
現在の研究段階では断定されていないし、研究もされていないようだ。ちなみに、古墳を調査していて気付いたことのひとつに、多くの古墳が研究者や専門家によって調査されていないことだ。古墳の所在が専門家によって判明したあとでも、本格的な調査は行われていないことが結構ある。古墳は数が多く、私有地に所在しているケースも多い。研究機関や教育委員会は、予算も人員も限られているので、重要と思われる古墳だけを重点的に調査して、ほかの古墳は放りっぱなし、という印象だ。
話を秀郷古墳に戻すと、付近にはこれ以外に古墳らしきものは確認できなかった。
いまは唐沢山神社の飛び地境内となっている。
☆
藤原秀郷は天徳2年(958)あるいは天暦2年(991)に没したとされる。秀郷のことは史料にもあまり書かれてないらしく、よく分かっていない。
没すると、この古墳近くにあった 大同山東明寺に葬られたという。このことから「東明寺古墳」と呼ばれる。
この東明寺については、興味深いエピソードがある。
徳川家康が亡くなると、亡骸が日光東照宮へと運ばれることになった。恐らく佐野を通る例幣使街道を進んできたと思うが、日光へ向かう途中、天明宿近くのお寺、惣宗寺(佐野厄除けのお寺、我が家も檀家である)で休むことになった。
その際、佐野の住職に召集がかかった。しかし、東明寺の住職は不参加あるいは遅参した。そのため、徳川幕府は元和3年(1617)に廃寺とした。
わたしは不参加した住職がいたことは以前から知っていたが、今回、改めて調べて、その住職が東明寺であったことが分かった。
実はこの事件は佐野の文化に極めて大きな影響を与えている。
推測だが、東明寺の住職が不参加あるいは遅参したのは、徳川家に対して好意を持っていなかったのではないか。
住職の思いは豊臣秀吉にあったのではないだろうか。
徳川幕府もそう感じたのであろう。この事件を口実に、佐野にあった歴史的文物を集めて、燃やしてしまったという。惣宗寺の境内は広いから、そこで燃やしたのであろうか。チャイナ王朝の始皇帝が行った焚書坑儒ではないが、焚書したわけだ。
わたしは子どものころから、佐野には江戸時代になる以前の文化が、少ししか伝わっていないことに疑問を感じていた。こうした理由があったのである。
話を秀郷塚に戻そう。
宝永2年(1705)、地元有志によって田原八幡宮がこの地に建立され、その後、唐沢山神社の管理となった。

この記事は、ひとりの歴史探究者が古墳・遺跡を訪ねながら、古代と向き合っています。答を探しているのではありません。問いが深まるのが楽しいのです。
古代史は研究者だけのものではありません。現地に立ち、自分の目で見て考えるすべての人に開かれた世界です。
