
2026/4/16
蓬田修一
1989年、中国では民主化を求める学生運動が拡大し、最終的に天安門事件として武力鎮圧に至った。この事件により、党内では指導体制の再編が必要となった。当時の総書記趙紫陽は学生との対話姿勢を示したため失脚し、後継者選びが急務となった。
そこで浮上したのが江沢民である。彼は当時、上海のトップとして、比較的安定的に都市運営を行っていた。天安門事件前後の混乱期にも上海で大規模な流血事態を回避し、また特定派閥色が比較的薄く、各勢力が受け入れやすい調整型人物と見なされた。こうした理由から鄧小平らの支持を受け、中国の最高指導者となった。
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江沢民に期待されていた最大の役割は、天安門事件で傷ついた国家体制の立て直しだった。国内的には経済成長、党の統治力の再建、社会の安定が求められた。国際的には、欧米諸国からの制裁や孤立を解消し、中国の対外関係を正常化することが課題であった。
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江沢民は改革開放を継続し、市場経済化を加速させた。1992年、鄧小平の南講話によって改革路線が再確認されると、江沢民政権はそれを本格的に推進した。国有企業改革、外資導入、沿海部開発、輸出主導型成長などが進み、中国経済は急速に拡大した。2001年の世界貿易機関加盟はその象徴であり、中国が世界経済に本格的に組み込まれる転機となった。
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江沢民は共産党の社会的基盤を拡大した。江沢民は「三つの代表」という理論を打ち出し、「先進的生産力」「先進文化」「広範な人民の利益」を党が代表すると位置づけた。これにより、従来は共産党の敵であった民間企業家や富裕層の入党が認められた。これは革命政党から統治政党への変質を象徴する政策であった。
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江沢民はまた、愛国主義教育とナショナリズムの強化に力を入れた。天安門事件後、共産党は民主化要求に対抗する新たな統治の正統性を必要とした。そのため、経済成長と並んで「愛国主義」が重視された。そこで利用したのが、近代の列強侵略、なかでも抗日戦争の記憶であった。こうした背景があり、江沢民時代は対日感情が悪化、日中関係は歴史問題をめぐって緊張する局面が多かった。1998年の訪日時にも、日本への厳しい姿勢を印象づけた。
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江沢民の施策は、党内では天安門事件後の危機を乗り切り、中国を高度成長軌道に乗せた指導者として一定の評価を受けている。特に、鄧小平後の権力継承を比較的安定的に実現し、国際社会への復帰を果たした点は大きい。
その一方で、腐敗の拡大や格差の進行も深刻化した。経済成長の果実は都市部や沿海部に集中し、地方や農村との格差が拡大した。また、権力と資本の結びつきが強まり、官僚腐敗も広がった。このため江沢民政権の評価は「豊かになった時代」と見る向きもあれば、「不公正が広がった時代」と見る向きもある。
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江沢民は革命家型の指導者ではなく、官僚的・調整型の統治者であった。毛沢東のような理念型でもなく、鄧小平のような体制再設計者でもない。しかし、改革開放を制度として定着させ、中国を世界経済の中心の一角へ押し上げた。同時に格差や腐敗という問題も残した。その光と影の双方を拡大させたのが江沢民であった。
