令和五年9月28日撮影
成田街道は江戸時代、江戸方面から成田山へ参詣する人が通った。
街道に置かれた宿のなかで、ここ船橋宿はもっとも栄えた。
街道の両側には商家や旅籠が軒を連ねた。
明治維新になり、戊辰戦争が始まると、船橋宿は市街地戦の戦場となった。
建物はほとんど戦火で焼かれた。
いま、この通りを歩くと、船橋宿の面影はまったく感じられない。
わずかに江戸の風情を伝える建築が2軒残っている。
その建物も昭和になって建築されたものだ。
自分たち家族が住んでいる地域が戦場となったとき、当事者の心情はいかばかりか。
わずかに貴重なものだけを持って避難したのであろう。
家は焼かれ、財産も失い、その後の生活はどうなったのであろうか。
戦後、明治政府は戦争で被災した人たちに、家の再建や生活立て直しのための補助をしたのだろうか。
戊辰戦争は広範囲で行われたから、被災した人たちにいちいち補助したのではきりがないし、戦争だからあきらめてくれ、という考えだったのかもしれない。






成田方面、船橋宿が終わるあたり、船橋大神宮がある。
江戸時代は幕府から厚く保護された、由緒ある神宮だ。
幕府軍はここに立てこもった。
政府軍は、江戸方面から成田街道を押し寄せてて来た。
自然、船橋宿が戦場となった。